ラーライブ〜MSGフリープロジェクト〜

石川県を中心に北陸で無化調でらーめんを作っている有志によるアミーゴ達の活動をブログに書いていきます。よろしくお願いいたします。

金澤流麺物語 第34回

Mとの別れはあまりにも
あっけないものだった。
Mがらーめん屋で働いてくれた
日数はほぼ丸一年ほどだった。
だからこの後11年続く海辺の町での
生活では彼とは一度も会っていない。

後悔が山の様にある。

まず、らーめん屋への参加を
絶対に認めるべきではなかった。
そしてそれ以上に、
何の理念もビジョンもないAさんに
しっかりと意見できるだけの
理念とビジョンを
僕が持っているべきだった。

しかし皆さん、
ここで書いている
事を覚えておいて欲しい。

Mが抜けた後、
さらに苦しい日々が僕を待っている。

しかしそれは僕の理念のなさや
ビジョンのなさが引き寄せたのだと
思っている。

確かにAさんにも問題はあった。
しかしそれ以上に僕の理念や
ビジョンのなさの方に問題が
あったのだ。

今僕は39歳で金沢に住んでいる。
Mとの別れからもう11年が経った。
あの頃と同じ失敗はしたくない。
だから再起の為にあらゆる勉強を
している。

その勉強している結果を必ずだして、
苦しかった海辺の町での生活が
無駄ではなかった、
あの日々があったから今がある、
という事を証明したい。

AさんもMも含めて、僕に関わって
僕に影響を
(いい意味でも悪い意味でも)
与えてくれた人々との歴史の延長線上に
僕はいるのだと証明したい。

話が大分それてしまった。
話をMが抜けた28歳に戻す。

Mが抜けたあとのらーめん屋は
本当に大変だった。

今まで二人でやっていた
仕事を1人でやるのだから、
毎日がギリギリの状態だった。
今思えば精神的に弱かったのだろう。
僕は『大変な自分』という
状況に明らかに飲みこまれていた。

定休日明けの週の初めの日、
僕は休み一日をぐっすりと寝て
体力は回復している筈だった。
しかし4時間の開店準備を終えて
暖簾をだす頃には、
全身が疲れ果てていた。

顔はこわばり、
笑顔も作れなくなっていた。
友人が店に来てくれても、
返事を返すのも億劫だった。
そんな僕を友人たちは
「大ちゃんはらーめんを作ってる
時はしゃべらないんだ。
本気なんだ。」

なんて良い方に解釈してくれて
いたから助かるが、ただ疲れて
いただけだった。

見るに見かねた女性の友人が
「掃除だけでも・・・」と
手伝ってくれるまでの一年間は、
あまり記憶がない。
おそらく心もなくただただ
労働として働いていたのだろう。
大好きならーめんを作っている
にも関わらず、だ。
お客様ともよくケンカをした。
酔っ払ってる客の売り言葉に
買い言葉よろしく、
放っておけば良い様な輩にも
真っ向から揉めた。

警察沙汰も何度かあった。
僕は荒んだ心から
自分をコントロールする事が
できなくなっていたのだ。

だが一方でこの時期は自分の
可能性を信じれる時期でもあった。
なぜか芸能人がよく来てくれた。
取材の申し込みも多かった。
その事が当時28歳の若い自分を
増長させてしまった事は否めない。

しかし、体力的にも精神的にも
苦しい時に、第三者から認めて
貰えるというのはとても
励みになった。

1441521338419力也さん

安岡力也さんと。

力也さんはカッコよかったな。
店に入ってくるなり、
その体格に驚かされた。
2メートル近くある様に見える
巨体を揺らしながら店に入ってきて、
めんどくさそうにドカッと席に
腰を下ろした。
僕が自己紹介をすると、
大仰にまるで野球のグローブの様な右手を
上段からゆったりと降ろしてきて、

「・・・よろしくぅ」

と呟いた。
最初は面倒くさそうだった
力也さんだったが、最初の一杯を
食べたらどうやら食欲に火が着いた
様子だった。

違う種類のらーめんをもう2種類食べて
くれて、計3杯食べてくれた。
僕が自分のらーめんへの思いを
熱く語ると、力也さんも食欲どころか
話したい気持ちにも火が着いたらしい。

テレビの取材でもなんでもないのに、
ほかのお客様はそっちのけで
「よう、大将、お前、俺が昔出演した
タンポポって映画しってるかよ?
俺はあの映画でピスケンって役を
やったんだけどよ、見てみろよ、
この壁なんてまるでピスケンが
作った店みたいじゃないか・・・」
「このらーめんは言うなれば、
吸いも甘いも経験した上で、
愛に目覚めたハワイアンガール・・・。
ならばこのらーめんはおしゃまな
顔をして大人びているが、
実はまだまだ純粋な心を忘れない
フレンチガールだな・・・」
等の力也さんならではの批評を
してくれた。

そして店を出る間際に
「大将、お前、貫けよ。
日和んじゃねぇぞ。
近くに仕事で来たら、
また来るからよ」

と残して帰って行かれた。
心底痺れたな。

 

そして。

1441521325686藤波さん

この時期にプロレスラーの藤波辰巳さんも
来てくれた。
藤波さんといえば、
僕が小学生のころに
祈る様に応援した選手だ。

当時黒船状態だった
ビッグバンベイダーとの
一騎打ちをアントニオ猪木
直訴し、なぜか前髪を切りながら
覚悟を示すという謎の行動を、
僕は震えながら見ていた。

そしてベイダーを日本人初の
フォール勝ちした時の興奮は
今も忘れない。

藤波さんは、力也さんに比べると
とてもシャイで、ゆっくりと話す
紳士という感じだった。
僕のプロレスへの質問も丁寧に
応えて下さり、僕のらーめんへの
熱い思いもゆっくりと頷きながら
聞いてくれた。

「君は面白いねぇ。
君一人できっとテレビ一本
作れちゃうよ」

なんて言ってくれた。

こうした事が僕の背中を
大きく押してくれた。

そしてこの時期は
『期間限定らーめん』
を数多く作っていた時期だった。
自分の思いつくアイデア
一季節を使って新しいらーめんを
作り続ける。
どこにもない個性的ならーめんが
次々に出来た。

それらのらーめんは固定ファンを生み、
シーズンが終わる日には一日に2回も
食べに来てくれたお客様もいた。

これらの個性的ならーめんを
なぜこの後作らなくなるかは、
今後の物語に譲る。
しかし間違いなく言える事は、
この『期間限定らーめん』への
チャレンジが僕の見聞を広め、
深め、自信をつけてくれた事は
間違いない。

この頃から僕のらーめんは
信者とも言うべき熱い固定客を
増やし始めていた。
ただ、強烈に個性が強すぎたため、
信者の様なお客様と、
否定的なお客様との温度の差が
大きかったのも確かだ。

Mとの別れや、体力的にも
精神的にもギリギリの毎日だったが、
今思い出すと、本当に青春だった。

弱い自分も夢見がちな自分も
全て曝け出していた時期だった。

幸せだったな。

僕は29歳になろうとしていた。
次回、苦しみながらも進んできた
Aさんとみんなで作ったこの体制が
大きく揺れる事になる。

壊れる時って言うのは、
あまりにあっけない物で
唐突な物だ。

次回へ続く。