金澤流麺物語

金澤流麺らーめん南の店長南大祐の独白ブログです。こちらは営業内容やらーめんそのものとは関係のない日常的な話や、店長の趣味格好などを書いていくブログです。

金澤流麺物語 第205回

以前にも書きましたが、金沢市の電気屋さんライフサワダの沢田さんが仰られていた「ブログも1000回更新したあたりから反響が変わるらしいですよ」という言葉を励みに更新を頑張ろうと思っている金澤流麺らーめん南の南大祐ですが、1000回て途方もないな、おい・・・。


さてさて、らーめんの麺についてです。

僕が修行を始めた頃(24歳でしたから、16年前です)、自家製麺にこだわる店が増えてきました。

神奈川県に留まらずらーめん好きならその名は必ず聞いかことがあるであろう、藤沢市鵠沼海岸にあった支那そばやの佐野実さんがこんな事を仰られていたのも、自家製麺に拍車をかけたのかも知れません。

「らーめん屋が自家製麺をやらずに製麺所に頼んでたら、そんなもんらーめん屋じゃなくてスープ屋じゃねぇかよ」

むむむ。

なかなかお厳しい言葉ですね。

当時24〜25歳くらいの僕は、「確かに一理あるな・・・でもスープの仕込みと営業だけでこんなに大変なのに、自家製麺なんて可能なのかな?」なんて思っていました。

そして16年くらい前、中華麺に必ず入っている灌水(かんすい)が健康に不安がある、という説が流布し、自家製麺を行うらーめん屋が灌水に変わる素材を探して模索していた時代でもありました。

蟹の甲羅を粉末にしたものや、海老の殻を粉末にしたものなど、新しい麺がメディアを賑わしたものでした。

当時は修行先のめちゃくちゃハードなスープの仕込みの仕事で精一杯だった僕は、正直麺についてまで勉強する余裕はありませんでした。

その後灌水に変わる素材は定着せず、灌水を使うことが当たり前になり誰も疑問に思わなくなりました。

灌水に代わる中華麺のコシを作る素材はなかったことと、研究の結果今流通している灌水は健康への不安はないと立証されたからだと思います。

でもそうした先人達の試行錯誤が時代を作っていくのですね。

その時代の先にこうしてらーめん屋を営めている事を、歴史の一端を担う役目を果たしているのだ、と誇らしく思います。

で、その後27歳で最初の店を構えて、31歳で移転した後何年後かなぁ?

35歳くらいの時かなぁ?

僕も自家製麺を始めました。

自家製麺を始めるまで、何度も何度も製麺業者は変わりました。

中には一度お付き合いを辞めた業者さんともう一度タッグを組んだり、僕はずっと付き合っていきたかったのに、大人の事情(苦笑)で付き合いを辞めざるをえなかったり、なかなか大変でしたが、辻堂時代の最後に自家製麺を作れたのはいい経験でした。

それまでの計4件の製麺業者さんよりも、自分のスープにマッチした麺になったと思います。(今の辻堂の店が自家製麺を続けているかどうかは、僕はもう知りませんが)

しかし一つだけ欠点がありました。

茹で時間が長い

という事でした。

もし僕にもっと時間があって、毎日製麺室にこもって開発と研究をする自由があれば、もっと茹で時間を短くしたり、もっと味わいやコシを研究できたのではないか?とも思いますが、それはもう過ぎ去った話しです。

今言いだしても栓のない話しです。

結局、自分が最初に作った麺をパートさんに毎日作ってもらう事になり、製麺を研究し尽くす事は出来ませんでした。

話は逸れます。

その頃のパートさん、スタッフのみんな、バイトのみんな、ほんまに苦労をかけました。

当時の事を思うと、本当に胸が苦しくなります。

僕に余裕がないばかりに、みんなに多大な苦労をかけました。

それでも、今でもパートさん達とチャットで会話したり、一人一人の元スタッフや元バイト達とメールでコミュニケーションを取れたりしている事を本当に幸せに思います。

いつかみんなが金沢にらーめんを食べにきてくれた日、みんなが喜んでもらえるようならーめんを作れるように毎日頑張るからね。

これからも仲良くしててください。

すいません。

話が逸れました。

えっと、つまり僕は自家製麺をしていました。

だから麺を作る事は出来ます。

ではなぜ金澤流麺らーめん南は四ノ宮商店さんを全面的に信頼して麺を注文しているのか?

それは次回以降になります!

待て次号!!